Da Vinch Code

卒論を書くぞ!今日は学校いかないぞ!
と心に決めて起きた朝、新しい冷蔵庫が届き、家は騒々しい嵐に見舞われた。
以前まで使っていた冷蔵庫は小さく容量がせまい。フロン使用タイプ。
大きいのが欲しいがそれをやるとその上に(キッチンの天井だけ収納があるために低い)、電子レンジしか置けなくなってしまう。今までパンを焼くときに使っていたのはもう置けなくなってしまう。残念。
でも冷蔵庫が広くなったのはよいこと。それに加えて冷蔵庫を搬入するために廊下はきれいになった。主にサックスが何本か廊下に置かれていたために掃除できなかった部分がきれいになったからだ。

一段落した後、気がついたら今日は27日だった。待望の吉沢先生レッスンの日だ。
時間をみると11時。急いで学校までリコーダーを取りに戻った。そのご、濃密なレッスンがあり、いろいろビール飲んだり立ち話をして帰る。ちょっと寒い中での立ち話が原因かどうか分からないが軽い頭痛がしてきた。
帰ってリュックを降ろすと体が軽くなった。けっこう重いもんもってずっと立っていたのだな。そんなこんなでなんだか疲労が激しくてちょっとパソコン見てすぐ寝てしまった。ので、卒論はまったく一字たりとも書かなかった。

しかし、卒論を書く時間はあった。
それなのに書かなかったのは別のことで大きく気をとられていたからだ。ダビンチコード。
これが面白すぎて、夜中読みまくった。大きく関心をよせてしまったのは、サスペンスの上手さ以外にもキリスト教の真実を語る部分があるからだ。たった一つの本によってのみ真実といってしまっていいのか、分からないけど少なくともキリスト教について懐疑的であった時のことを思い出した。「聖書は天国からファクシミリで送られて来た訳ではない」という文はまさに聖書が唯一のよりどころとするキリスト教の考えと大きく違うし、さらにいうなら「歴史は勝者によって残される」という事実も真実味を帯びているらしいと考えた。さらなる研究や著作を洗ってみたいが「なぜルカ、マタイ,ヨハネ、マルコだけが福音書として残されているのか」という疑問への答えが少し見付かった気がする。*1

キリスト教を信じているものにとっては大きな批判受け入れるという意味で重要だと思った。キリストを「神の子」として受け入れるのか「偉大なる力をもった指導者」として受け入れるのかは結構重要な問題だ。それはまさにイエスは「神様がつかわしたもののか、それとも一介の革命思想をもった指導者なのか」という問題になる。さらにいうなら、その後のローマ、カトリック教会の方針が男性優位になるように改革を推し進めてしまったという批判も受け入れなくてはならないと思う。死海文書などが発掘されてきて、原始キリスト教の姿が見えてくるとそれが現在のキリスト教と少々趣を異にすることに気がつく。以前、(イエスの母)マリアがでてくるのはルカの一部分しかないという、カンタータ研究の本があった。これは磯山雅の「カンタータの森を歩く」というマリアの主日を祝うものの特集本であり中にはCDまでついている。

マリア信仰が失われていて何年頃からか「マリアの主日」といういい方が別な物に変わった、という言葉はすこし引っかかっていたが、今回の本に出てくる記述とてらし合わせると非常に考えがまとまってくる。この教会のむりやりな方針というのが少し気になるが、そもそものイエスが男女平等論者であったというのは好ましいもの。以前、ローマの教皇を信じるのかという質問をされたが、とりあえず僕が信じるのは神様とイエス様だろう。

*1:コプト語で書かれた「トマスによる福音書」は非常に興味深いものとして研究されているのはちょっと検索するとでてくるし、ダビンチコードには信じられないことに実際には50以上の福音書が存在したとある