傷つけること

だれかを傷つけることが、最初から予想できるということがいかに悲しいことなのだろうと考えてみた。

憎しみ


憎しみを抱く人でなく、憎しみという感情に敵対しなくては。憎しみを制御することいかに難しいことかと考えるけれども。憎しみがつたわってきたら、自分のところでとめてやろう。例え最初の衝撃がとても大きくとも、憎しみによって自分を左右されない人になろうと思う。いつか優しさが憎しみにまさる日を信じて。

なじり、謗り


悪口をいうこと。。。気がつかなくても相手の悪口になっていたりするのかもしれないのか。負のエネルギーは連鎖する。時間が経って誰もが忘れる日が来る前に、だれがこれを止めるのだろう。もしそんなことがあったら信頼できる人に打ち明けてその感情をとばしてしまおう。いつか笑顔が悪口にまさる日がくると思う。


信仰を持っている人はもしかしたら心の支えが強いのかと思い羨ましくなるときもある。たくさん聖書をよんで、意味を考えた学期であったけれども本当にそれが心の奥底に根付いてくれるのかわからない。神様を信じています。でも僕は疑い深い性格で、きっと目の前で奇跡をみても信じることができるかわかりません。
以前、みんなの祈りがものすごく僕を強くしてくれたことがありました。祈る力というものを信じています。思い遣るという力と感動することが大切だと信じています。



もし僕が神様を信じて生きて行くことでこの世界が少しでも佳くなれると言うなら、こんな簡単なことはありません。よろこんでそうします。神様、世界を救ってください。

ニュースから

米兵が治療した無抵抗なイラク人を、翌日に米兵が射殺したというニュースがあった。
この人たちは人を信用することができない。
それどころか人としての尊厳さえもない。


おれおれ詐欺を働く人が増えている
この人たちは自分達が何をやっているのか、理解していない。
彼らは人の不幸から利益を得ているんだ。

翻って考えると、僕は信用も信仰も信頼もなく、だれひとり救うと約束もできず、誰一人たりとも手助けしてあげられる保証もなく、将来何一つ約束できるものはない。そうだけどどこかに自分はそうではないのだと期待を抱き、その期待は期待のままで毎回終わってしまう、、、、。自分の至らなさを痛感する毎日を過ごしている。

効率よく生きる術も知らないし、自分の一生をかける何かはまだみつからないまま。



でも、明日に生きている確率は高い。
そして悪事をしない確率も高い。人を殺す確率は少ないし、大きく人生を踏み外す確率も少ない。まだ終わってない物事を放棄して「ああ、もうだめだ」なんて言わないと思う。「お人好し」といわれて、いろいろなものを素直に信用する確率も高い。


ひどく足りないような感じがするのだけど、実は心の底では何か自分を形成するものがあってそれを自分のベースとしてしっかり生きていこうと思っています。もちろん、いろいろな人(や物)に頼って助けられています。この日記を見ている人の多くにとても感謝してます。