自分のことについて

タイトル通り行くと、「鏡をみて自分がみたもの」ということになる。普通鏡をみると見えるのは自分の顔であり姿。だけど、これには意味があって鏡を見て自分が見たものというのはその日の自分であり、その日の自分がいったい何を見たのか体験したのかということになると思う。そもそも自分の鏡で見るというのは、自分の大なり小なりの偏見を持って世界を見ることであって完全なる客観性をもって世界を観察することはできない。自分がどこにいるのか、自分が何者であるのか、自分が何をみようと思うのかという要素によってまったく別の精神世界が展開される。見るというのは、世界を観察する上で聞くことと並んで大きなものであると思う。百聞は一見に如かずという言葉があるけれど、目でみる情報というのはとても「事実」を観察しているように錯覚しがち。同じ見たものでもどう感じるかで全く違う印象をもつことがある。(壺と向かいあった人の絵が有名だ)


この日記はそんな「僕から見た世界」でありこれというのは、果たして他人から見たらどうなのかとか、こうおもった。こう考えた、ここが記憶に残ったというポイントを書いている

今日一日考えてたのはパソコンのことだったけれど、夜遅くになって今まで考えてきたことを少し文章にしてみることにした。

僕は今23歳で、年の割くらいには落ち着いているけれど外見は世の中一般の人よりも若く見られることが多い。自分はあまり年齢を気にして上下関係を考えるほうではないし、これが影響して下級生とでも心の垣根がないということで友達になれることが多い。社会にでて通用するかといえば、ちゃらんぽらんなやつと見られるかもしれない。でも友達が多かったり、すぐにいろいろな人と仲良くなれたりというのは財産だと思う。ただし、僕はあんまり多くの人に心を許している訳ではなく、それは外向的な自分を見せているだけのときもある。自分で自分を見ていると、内向的なところもあるし、忘れっぽいし、よく悩むし、優柔不断なところが大きい。なかなか自分のことを誰かに打ち明けることはないのだけど、それでも何人か心の底から信頼している人もいるし、そういう人がいるということは僕の人生にとって大きなプラスになっている。


僕を形作るもので大きなものの1つに双子であるということがあげられる。僕は今まで双子であるということをあまり気にしないし、そもそも高士の方を双子であるからといって面白がったりするわけでもなく、仲良くするわけでもなく、何かを一緒にやることも少ない。双子というのは何かエポックメイキングな出来事で、巡り合わせなのかもしれないし、周りの人には珍重され、二人セットにされ、何かと比べられることが多い。
外見が似てるというのは、確かに他の兄弟に比べればそうなのかもしれない。育つ環境が同じであるため考えも似ているし、テストも同じ所を間違えるし、声も仕草も似ている。
あんまり高士に頼ることもないし、何かを相談することもないからとても希薄な兄弟関係といえるかもしれない。


つづきはまたいつか。