礼拝から思うこと

タロのメッセージはいつも示唆に富む。


神様から離されたと感じるときという内容のお話だったけれど、彼はよくたとえ話を用いる。

以前、私と(奥さまの)のりちゃんが海水浴に行ったときのこと。サモア人っていうのは、泳ぐっていうのは「ぷかぷか浮かんでる」っていうことを意味するのだけど、日本人はばしゃばしゃとSwimしますねー。あっちとこっちを自分で決めて、何度も往復してます。別に何か目標があるわけじゃないのだけど、こことここっていうのを決めて往復してます。で、ぷかぷか浮いてる私は「なんか勝手に決めて泳いでる」と見てるわけです。そしてふと気がつくと、別段大きな波がないのに私は結構沖に流されてるんです。見えない潮の流れが流していたんですね。

神様から離れたという時も、こういうことに近いのです

別段大きな波がないのに、私たちは「見えない潮の流れに流されている」というのが、おおなんという分かりやすい例えじゃと思う。自分で決めたことをこまめに守って、自律的に行動を起こしていかないといけない、ということ。そういうのは何か勝ちとるもので、信仰っていうのは闘いながらえるものだという。


もう一つ。

二人の猟師がいて、熊に追われたときのこと。
一人は洞窟に逃げ、一人は木の上に逃れた。熊は両方が見える位置にいて、見張っている。するとしばらくして、洞窟から猟師が出てきてしまって、熊に見つかってまた洞窟に逃げ込む。またしばらくして、洞窟から猟師が出てきて、また洞窟に逃げこむ。またまた、猟師が出てくる。すると木の上の猟師は「おい、お前、熊がいなくなるまでずっと隠れていればいいじゃないか」と訪ねる。

すると、もう一人の猟師は困った顔で「いや、洞窟の中にも熊がいるんだよ」と答える。
両方のことでどっちに逃げて良いか板挟み。

「人生って、こういうもんじゃない?!(Life is like what it is ?!)」という言葉に「あー、そうかも」と思わされる毎度の礼拝。