キリスト者として
キリスト教の大学に行っていたから、キリスト教概論という授業があった。
あんまりにも分からない話をするのでいつも情報が右から左に流れていたから理解もしていなかったし、大して興味もわかなかった。しかし、そこで一つ今でも大事に思う箇所を教えられた。
僕にとってこの授業から得るモノは実はこれだけであった。
ファリサイ派の人々が、神の国はいつくるのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
(ルカによる福音書17:20ー21)
ファリサイ派ってどんな人たちだったんだろう。と、現代の辞書であるインターネットで検索。
マタイによる福音書におけるファリサイ派 説教者:マイケル・フューリィ 原文:英語 文: (日本語):清弘剛生 1 ファリサイ派は、間違いなく紀元一世紀の当時において、 最も献身的な信仰者のグループの一つです。イエスは、有名 な「山上の説教」の中のマタイ5章20節において、このユ ダヤ教における主要な分派の熱心さと献身とを認めておられ ます。(以下略
つまりユダヤ教の一派で積極的にイエスに質問を投げかけているシーンと考えるといいと思う。神の国がくるっていうけどホント?いつくるの?
なんて、僕でも聞いてしまいそうな質問だ。それに対する回答は「僕たちの間にある(ファリサイ派の人たちだけに特有とは思わないから)」ってことだった。目には見えない形で来るもので、僕たちの間にあるもの。これが神の国なんだ。
僕たちの間にあるもので、見えないもの。
みんなは何を想像するのかな。
僕は人間関係とかお互いの思いやる心、お互いを愛する心、お互いを尊重する心、信頼する心を持つこと。相手を軽蔑しない、蔑まない、高慢にならない。そんな関係が僕を取り囲むみんなと共有できたら、それは幸せだと思うな。もしかしたらこれこそ神の国って思える。
でも人って罪深いもので、気がつかない潮に流されるようにいつの間にかふとそういう幸せなんか頭の隅っこにおいやって、ある時は裏切り、蔑み、憎み、軽蔑してしまう。自己中心的な考えで、自分だけ得する、自分だけ気分がよい、自分だけ〜っていう意識は誰しも持っていて、そういう気持ちから生まれるのが罪ってわけだ。例えクリスチャンであっても、(クリスチャンが罪を犯さないなんて思っていたら大間違いだ)こういうことがあるってことを覚えておかなくちゃならない。
神の国は僕たちの「間」にあるもの。それは僕だけでは達成できない。今読んでいるあなたと共に作るものだと思う。例え罪によってそれが消えかかったとしても、どんな罪もすでにイエス様によって贖われているのだから、僕はしっかりと土台をもちつつ「じゃー、神の国作ろうぜ」と呼びかければよいのだ。
おっけー、じゃあ神の国作りを始めようじゃないか。