日常を通る自分

世の中はバランスで出来ていると思う。
にやけながら歩いている人もいれば、しかめっつらをして歩いてる人もいる。
信条をもって生きている人もいれば、もう何をしていいか分からない人もいる。


人生のアップダウンもバランスかも知れない。
今は特に悪いニュースもなく、ただ日々が流れるのをまるで傍観者のように「見る」日々。やらなくてはならないことはあるし、期限が見えづらいから集中できない自分のつたなさもある。そして、やることがいまいち決まらないとできない自分の技術も、嘆息の原因。


逆にとんでもない集中力をもって物事にあたり、できてしまうこともある。
それが日常で出来ないのが、一介の院生と博士たち・先生たちとの違いだと思う。


そうして、僕は今まで他の人より早く走れると思っていたところから、いつの間にか歩くこと・人前での行動を学ぶことになり、というよりもぬるま湯に浸かってしまい、走ることができなくなった。歩いていてもそれが普通だと思うようになってしまった。むしろ、普通に受け入れそうになってしまった。


そんな示唆的な出来事があった。


コンサートが終わり、恵比寿へ向かうときのことだ。
時間を調べてみるとあと3分で出るという。ホールから駅は歩いて10分ほどの道のり。走れば間に合うんじゃないか、いや、走っても間に合わないと意識が交錯する。中途半端に走って、目の前で間に合わないことが一番悔しいのではないかと、声がする。



それでも走ってみる。
足首に激痛。やっぱり走れない。でも、本当は走れたと思う。


いつでも走れると思っていたときはいいが、やってみて走れないと思うことの苛立ちは攻撃対象が自分に向く。そうして30秒前に発車する電車に乗り遅れ、後悔することになる。痛みをおして頑張っていれば、急行に乗れた。


そして、急行に乗れなくても現地にはつく。
しかしそれが、鈍足な行動であることに満足できず、満足してしまったらそれで終わりで、、、、。いらだつ気持ちを抑えるのは簡単だけど、そうして自分をごまかして目的地にたどり着いたとしても、たどり着いた意味が違う。時間が違う。